雲鷹丸

unyoumaru
水産講習所 (現 東京海洋大学)第2代練習船

 バーク型帆装のアメリカ式捕鯨船であり、現存するアメリカ式捕鯨船では最大。
 初代練習船快鷹丸からその用務を引き継ぎ、明治42(1909)年5月30日出帆の第1次航海から昭和4(1929)年8月まで約20年間就航。第36次航海を最後に第3代練習船白鷹丸へ用務を引継ぎ、当時の本校所在地であった越中島岸壁に係留された。
 昭和37(1962)年に喫水線上部の船体が現在の所在地に移設され、昭和45(1970)年には現在の姿に復元され保存されている。

時代背景

 明治時代前期に日本で実用されていた漁船は、日本形無甲板船(長さ15m、幅3~4m程度の木船)で大きな波に耐える強度がなく、遠方への出漁には不向きだった。
 当時の政府は遠洋漁業の振興、発展を目指し明治30(1897)年「遠洋漁業奨励法」を公布すると同時に、漁船の構造を西洋形の船体及び帆装に改め、乗組員の技能向上を目指した。また、明治38(1905)年に同法を改正して漁業奨励金のほかに「遠洋漁船検査規程」に合格する西洋形漁船の新造に対して漁船奨励金を交付する制度を設けた。
 明治30年勅令第47号により東京海洋大学の前身である水産講習所が開所され、明治 34(1901)年に初代練習船快鷹丸が進水し、実績を挙げていたが、明治40(1907)年9月に台風のため朝鮮半島東岸迎日湾にて難破した。
 この事故により明治40年11月、代船建造予算13万円が決定され、建造されたのが雲鷹丸である。

建造

 建造には捕鯨を含む全ての漁業に関する実習、試験、調査及び海洋観測に加えて漁獲物の船内処理、加工ができることを条件とした。明治時代末期には既に汽船が活躍をしていたが、操船技術の習得、慣海訓練は帆船で行うことを基本としていた時代であったため、補助機関付帆装練習船が採用された。
 設計及び監督には黒田九満男教官を中心に東京帝国大学寺野精一教授及び松田勉三助教授、逓信省海事局城与三郎技師及び永松文一技師、水産講習所岡田少三郎技師及び上枝平五郎助手が参画し、大阪鉄工所〔現在の日立造船(株)〕桜島工場で建造された。船体、機関及び諸設の設計、施工には当時の最新技術を駆使、帆装の設計は世界最高の技術と実績を持っていた英国に発注された。
 学生の教育、実習を目的とする練習船であっても試験操業、海洋調査等多目的の調査研究船としての機能をもち、遠洋航海に耐えることができる大型で頑丈な各種の設備、装置が完備された。これにより雲鷹丸は、当時最高水準の技術をもった練習船として完成した。
 明治41(1908)年5月起工、明治42年2月21日大浦兼武農商務大臣による『雲鷹丸』の命名、松原新之助水産講習所所長の支綱切断による進水を経て、同年5月12日に竣工、品川にて披露された。

功績

 明治42(1909)年5月30日漁撈科12回生が乗船し第1次航海に出港。その後、夏季に北洋、冬季に南洋を巡航し学生の実習、海洋調査、漁具漁法の試験等が実施された。
 雲鷹丸が、実習航海に併せて、日本の遠洋漁業振興のために行った各種の試験操業、漁具漁法の開発改良及び海洋観測等の実績は次の通りである。

1) 近代日本水産界の発展に寄与した人材の育成
 明治42(1909)年〜昭和4(1929)年の20年間で約600人の実習生が乗船した。
 卒業生は、操船や漁法にとどまらず基礎学理に基く海洋調査や資源開発等、技術革新の素養を身につけ、日本の水産業の発展に大きく貢献をしている。
2) 海洋観測による漁場開発
 近代漁業が始まる以前の漁法は経験と勘を頼りに行う手法が一般的であったが、雲鷹丸には当時の最先端の調査、観測用機材が装備され、画期的な海洋調査が実施された。調査海域は雲鷹丸の航跡に合わせて拡大し、科学的な海洋漁場学の基礎を確立するとともに、母船式漁業の発展、遠洋漁業の振興に大きく貢献した。
カムチャツカ漁場の開発及びカニ工船事業の隆盛
 北洋における母船式蟹漁業のはじまりは、大正3(1914)年雲鷹丸がカムチャツカ西岸沖で行った漁場調査及び漁獲物の船上処理の成功だった。当時カニ缶詰加工は多くの清水を使用するため船上での加工は不適当とされていた。雲鷹丸ではカニ肉を海水で煮熟、冷却する方法を試したところ清水を使用した時よりも良い製品が得られた。この結果から船上でのカニ缶詰の大量生産が可能となり、大正10(1921)年から大型母船式漁業が実現した。
オホーツク海域の底魚調査及び資源利用
 19世紀初期、日本の農作物に必要な肥料の多くは輸入に依存していた。そのため、輸入肥料を国産品に転換する方法として水産資源が注目されていた。
 雲鷹丸は昭和3(1928)年オホーツク海域の底魚資源調査を行った結果、利用可能な資源を確認し、フィッシュミール工船事業の糸口となった。
アメリカ式捕鯨実習
 嘉永6(1853)年6月、浦賀に来航したペリー提督麾下の黒船艦隊が徳川幕府に提出した大統領親書には、北太平洋で操業していた捕鯨船に対する補給及び遭難救助要請が述べられていた。
 アメリカ式捕鯨は300トン級の帆船に数隻の捕鯨艇を搭載し、漁獲物を舷側で解体して鯨油を採取する目的で、世界中の海域で操業されていた。
 雲鷹丸が建造された頃にはノルウエイ式捕鯨が導入されていた。
 アメリカ式捕鯨は行動範囲に制約がなく長期間の操業が可能であるが、ノルウエイ式捕鯨は130トン級の捕鯨船に捕鯨砲を備え捕獲した鯨体を自力で基地まで曳航する方法であり操業範囲が限られていた。雲鷹丸にはアメリカ式捕鯨の機能が装備され、勇壮な捕鯨実習が行われたが、大正元(1912)年に発生した事故を最後に取り止められた。
3)航海次数
  従来、昭和3(1928)年までの33次航海までが認定されていた。これ以外に大震災の翌年大正13(1924)年に海洋観測を主体とする3航海が変則的に実施された。この3航海で得られた資料も報告されていることを考慮して、これらの3航海を第30、31及び32次航海として加算し、雲鷹丸の航海を36次とし。
雲鷹丸航海の概要
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引退後の雲鷹丸
昭和4年
引退
昭和7年
船内の一部を補修改装し、係留練習船として活用
昭和20年
進駐軍による校舎接収 (大学の岸壁に放置され、急速に船体・設備の老朽、劣化が進行)
昭和37年
東京水産大学創立70周年事業として品川キャンパスへ喫水線上部の移設が実現
(移設と固定だけの工事だったため、ロア・マストのみが装備された状態だった)
昭和43年
現在の姿に工事完了
(現在の姿は完全復元ではなく、外観が現役時代の勇姿を忍ばせる程度に止まっている)
昭和45年
(財)日本船舶振興会からの補助金、楽水会会員等の寄付により復元工事開始